家で良い服を着ると幸せになれる
ここ数か月、家で「良い服」を着て暮らしている。
みすぼらしい部屋着は撤廃した。
その効果はてきめんだ。
何もしていなくても気分が良いし、自宅だからといって自堕落になることなく生活にメリハリがつく。
常に素敵な服を身にまといベストな状態の自分でいられるので、自己肯定感もアップした。
これまで、服に関しては長らくジプシー状態であった。
東京で会社員をしていた20代中頃までは、マルイなどでコンサバ・清楚系の服を買っていた。
今考えると、「好きで着ていた」というよりは「周りの人間もそうだからなんとなく合わせていた」だけだったとは思う。
でも、少なくともそれで不都合を感じることはなく、それなりにおしゃれを楽しんでいた。
が、結婚と同時に地方へ移住し、フリーランスに転じ家で仕事をするようになると状況は一変する。
常に家にいるので、一日中パジャマでいることも多い。
プライベートと仕事の切替に「着替えること」が重要だと気づいてからはパジャマ生活を脱したものの、それでも着替えた先の服はテキトーな部屋着だった。
その代わり外出時にはおしゃれ着を着るかというと、そうでもない。
東京で買ったコンサバ・清楚系の服は、田舎ではめちゃくちゃ浮く。
休日の過ごし方も「都会的なお出かけ系」ではなく「自然を楽しむ系」になるので、コンサバ・清楚系の服はTPO的にも不適だった。
しかも、ある年齢を超えると急にそれらの服が似合わなくなるのを感じた(このような問題に突き当たる女性は少なくないのではないかと思う)。
さらに追い打ちをかけるように、ファッションの流行がどんどんカジュアル寄りになっていった。OL風の服しか知らない私としては完全にお手上げである。
頼みの綱のインスタで、流行をおさえたプチプラ服を素敵に着こなしている人を見かけて同じような服を買ってみた。
が、私が着るとどうも野暮ったく見える。
ごくたまに良さそうなものに出会っても、お手頃価格の服はその分すぐに劣化してしまうのであった…
何を着ていいかわからなくなった私は、完全に迷子になっていた。
それでも、「今の生活に合った素敵な服が着たい」という気持ちは常に持ち続けていた。
どのようなコンセプトで服を揃えれば良いか考えたり、シーズンごとに購入品を振り返っては一人反省会をしたりしていた。
例えば、2019年のメモには「①部屋着兼ワンマイルウェア兼運動着と②そのまま旅行にも行けるようなお出かけ着の二本柱にしたら良いのではないかと思い始める」などと書いてある…我ながら健気な努力であった。
いつか欲しいと思える服に巡り合う時のために、毎月一定額の服飾費を積み立てたりもしていた。
そんな折、インスタだかツイッターだか忘れたが、「家でも好きな服を着てすごすとQOLが最高」という旨の投稿を目にした。
いいな、と思った。
同じ頃、コロナ渦で今まで以上に家にいることが増え、四六時中部屋着を着ているような状況が続き、さすがにおしゃれに飢えてきていた。
このような中で、夫が着ている「とあるブランド」の服が気になりだした。
品質と着心地にこだわった、「大人のカジュアル」といった佇まいのブランドだ。
夫が持っているそのブランドの服はどれも4~5年前に購入したものだが、全く悪くなっていないどころか、経年で味が出て購入時よりも素敵に見える。
一癖あるけれど流行り廃りのない普遍的なデザインなので、古臭くも感じない。
購入時は「高いな~夫は着道楽だな~」などと思っていたが、これだけ長く着れるなら高くない、むしろ安いのではないかとすら思った。
しかも、それらの服を着るたびに夫は「着心地が良くて本当に気持ちいい」と満足気に語るのだ。
自然と、このブランドの服を部屋着にすることを考えるようになった。
値段が値段なので躊躇いもしたが、在宅仕事をしている私にとっては部屋着といえども仕事着でもあるわけで、少々お金をかけてもバチは当たるまいという思いが背中を押した。
コロナ自粛中なので試着にも行けない。
オンラインショップを訪ね、ベーシックなシャツワンピースを一着購入した。
ネットで試着もせず数万円の服を買うなんてこれまでにない経験だ。不安と期待の入り混じった気持ちで到着を待つ。
届いて袖を通すと…
まずは完成されたシルエットに感動した。お世辞にも褒められたものではない私のスタイルが、格段に良く見える。
続いて、着心地の良さにやみつきになった。少し動いたときに脚に裾が触れる、そんな感触さえ気持ち良い。
生地の質感も縫製も何もかも、今まで着てきた服とは全く違った。
品質の良さが醸し出すきちんと感はありつつも、あくまでも気取らないカジュアルな雰囲気の服なので、近所のスーパーから歯医者から美容院からちょっとした屋外アクティビティまで、どこにでも着ていける。
まさに今の暮らしで求めていた服だった。
それからは、暇さえあればブランドサイトをチェックするようになり、破竹の勢いで買い足していった。
潤沢だった服飾費積み立ては底を尽きた。
が、コロナ渦で趣味の活動ができないため持て余していた予算がある。それも投入して取りつかれたように購入する。
これまでの服はどんどん捨てた。元々ほとんど着ていない服ばかりだったので抵抗もない。
クローゼットが好きな服だけになっていくのは幸せだ。
素敵な服にすっぴんでは締まらないと、家にいる時でも軽いお化粧をするようになった。
いつ人様に見られても恥ずかしくない格好になったので、外出が億劫ではなくなった。
これまでは一日中家から出ないこともザラだったが、積極的に散歩に出かけるようになり健康的な暮らしになった。
在宅仕事は自分との闘いである。
少し油断すると仕事をサボってベッドでゴロゴロ…となりかねないが、「こんな良い服で寝っ転がっているわけにはいかない」と仕事にも精が出るようになった(後に、ここの服はすごく丈夫で多少ゴロゴロしたくらいではへたれないということがわかってからはこの効果は薄れた)。
生地に表情があるので、少しくらいシミがついたとしても気にならず気楽に着れる。
さらに、洗濯を繰り返すごとに風合いを増し馴染んでいく服に、愛着は日に日に増していった。
楽しい!
好きな服を着ていると、常に上機嫌でいられることに気づいた。
コロナで外出できなくても、「まあいっか~服が素敵だし☆」で解決。
何か嫌なことや心配事があっても、「どうにかなるか~服も素敵だし☆」で解決。
何もなくても、服が素敵で楽しい☆
素敵な服を着ている、ただそれだけで、機嫌のバロメータががっつり底上げされているのを感じる。
自己肯定感が低めだったり現状になかなか満足できなかったりと、なんとなく損な性格をしている私だが、最近は「幸せだな~」と感じる瞬間が増えたのは、間違いなく服のおかげだと思う。
家で良い服を着る。おすすめです。
(妻)
妊活中の共働き夫婦はDINKsでないのか?
記事を書き始めるにあたってDINKsの厳密な意味を知っておこうと思ってwikiを見てみた。
それによると、DINKsというのはDouble Income No Kidsの頭文字を並べた造語で、共働きで子供を意識的に作らないもしくは持たない夫婦のことのようだ。
あれ?「意図的に子供を作らない」という点が定義に入っている。
結婚して日が浅いために子供がいない夫婦や、何らかの事情により子供を持つことができない夫婦などは通常DINKsに含めないという注意書きまである。
ということは、我々はDINKsではない。
なぜなら子供は欲しいと思っているし、ゆるゆると妊活もしているからだ。
しかし、中々思うように子供が出来ないので、子供が出来た時の貯金はしつつも今の生活を楽しもうと色々と工夫している夫婦だ。
日本で一般的に使われている呼称がなさそうなので、英語のwikiも調べてみると、もう少し詳しく書いてあった。
まず、共働きで子供がいない夫婦を総称してDINK(s)という(日本語版に書いてあるような制約はない)。
DINK(s)には4つのバリエーションがある。
1.DINKY (double income, no kids, yet)
子を作る意思はあるがまだ子供がいない夫婦
われわれはこれに当たる。
2.GINK(green inclinations, no kids)
環境のために子供を持たない夫婦
なんと多様な価値観が存在することか。
3.DINKWAD(double income, no kids, with a dog)
共働きで子供はいないがイヌを飼っている夫婦。
私たちもイヌを飼うと別称を与えられるようだ。
4.DINKER(double income, no kids, early retirement)
共働きで子供を作らなかった夫婦が早期退職した場合の呼称か。
それではもはやDouble Incomeではないではないかと思ったが、詳しい解説が見当たらないのでよくわからない。
これを踏まえると、私たちはDINKsの中のDINKYと言うのが最も正確だ。
日本語版では私たちをDINKsと呼ぶのは間違いだが、英語版ではDINKYはDINKsのバリエーションの一つだ。
DINKYという呼称は日本ではまだ一般的でない。
検索してみると、ビンテージ英国車に特化した素敵な自動車屋さんが出てくるだけだ。(あまりに素敵なお店なので実際に伺ってみたくなった。)
DINKYという言葉を名前に入れると万一このブログの人気が出た時にこのお店に迷惑がかかる。
とりあえずはDINKsを使っておくのが無難だろう。
というわけで、いきなりブログの名前を変更せずに済みそうだ。
(夫)